昭和45年8月19日 前夜祭 (末永信太郎) №45-105
・・・祈りであり、願いなのです。私、今晩の前夜祭を奉仕させて頂くに当たって、神様にお礼を申させて頂きましたらね、あの、鼓の、あの、(ちどりがけに着せて?)あるのをギュッと締め上げて、こう、今にも、その鼓を打たせて頂こうとする、こう、姿勢。もう、打たんばかりのところの姿勢を御神眼に頂きましてね。本当に私は、今日は私、もう、出がけから、眠たくてきつくてね。とにかく、あの、これは、今からお祭り仕えんならんけん、こげん眠かならと思うようにきつかったんです。
ほれで、やっぱりこう、お祭り出て参りましてもそうでしたけれど、ご神前に出らせて頂いて、そのことを頂きましてから、もう、途端に新たな血が入れ替わったように生き生きと、しかも、有り難う。いや、この調子でおかげ頂きゃ、明日はいよいよ有り難い大祈願祭に奉仕をお許し頂けるなと思わせて頂いたんです。ね。神様はいつもね、私どもに、よりおかげを下さろうとしておる。
ためには、より、いつも本当なことを分からせて下さろうとしておる。そのために、神様はより私どもに、今までよりも本当の修行を求め給うということです。私はあの、台風以来ここ幾日間。もう、それこそ、まあ、お詫びにお詫びに徹しさせて頂いて。許されたという気にならなければ、いかに願い月だと言われても、とても願いのお祭りには突入できないという気持ちでした、あの台風以来。
昨日から、ずっと話しておる通りでございます。それに、今度、今朝から朝の御理解はですね、もう、恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて、もう、本当にもう、すべてが恥ずかしゅうて穴があるなら入りたいというような恥ずかしさで、今日一日過ごさせてもらいました。もう、その修行は、私生まれて初めて、恥ずかしいという事に気がついたことは。今朝の御理解を頂かれた方は、良うお分かりになると思う。
そういう、詫びから詫びに徹しさせてもろうて、今日はそれこそ、穴があるなら入りたいほどしの恥ずかしさで、神様にそのことをお詫びさせて頂いたり、お願いさせて頂いたり、恥ずかしい思いを、神様に何と、神様に顔を向けられないほどしの思いの自分というものを、様々な事柄の度に感じつかせて頂いた。ね。
そのことがね、どういうことであったかと言うと、神様はより有り難い、より本当なことを分からせて下さろうとするお働きの他ではなかったことを感じさせて頂いて。そこで、いわば神様は締め上げにも締め上げて下さって、今日の、今晩の前夜祭を奉仕させて下さったという感じがいたします。ね。
いよいよ、明日打ち鳴らされるところの硯の音色というものは、それこそ、まあ、最多とまではいかんでも、本当に有り難い音色がね、出るところのおかげになることだろうと思います。ここに私どもが、本当に分からなければならないこと。神様はいつも、よりおかげを頂かせて下さろうとしての、今の難儀なのだ。より、本当なことを分からせて下さろうとするための、今の信心なのだ。ね。より本当な道を歩かせて下さろうとする働きが、その恥ずかしい思いをしなければならないことであり、お詫びをしなければならない自分を見極めることなのだ。そこに、詫びて、詫びて、詫びに徹するお詫びの姿勢。または、恥ずかしゅうて穴があるなら入りたいというような、ウブな心。ね。
そういうウブな心、詫びる姿。そういう姿に神様が感応ましますんだな、と。そして、今日、今晩思わせて頂くことは、絶えず神様が、より良いおかげを下さろうとしておるということ。明日の、ただ、願って願ってと言うてもです、その願いが成就することのためには、やはり私が、ここ幾日間の詫びたり、恥ずかしい思いをしたりしての自分というものを見極めることの出来るチャンスを、あらゆるところに与えておいておって下さったという気がいたします。もう、これは事実に、真実そうなのです。
より、神様がおかげを下さろうとしてのそれなのです。ね。より、本当なことを分からせて下さろう、よりおかげを下さろうとする。ね。例えば、夏の祈願祭でも、去年よりも今年の夏の祈願祭を、より有り難いものにして下さろうとすることのための、ここ幾日間の、なるほど修行であったなということを、まあ、感じさせて頂いたのでございます。
いよいよ、だいたい、もう、準備も明日のお祭りはほとんど、もう、今日は明日のお祭りのお供え物、お供えつけもほとんど済んでおるようなおかげを蒙っております。いよいよ、明日の御大祭を、もう、本当に、もう、真正面から神様へ願ってかからせて頂けれる大祈願祭にならせて頂くことを願わせて頂いて、今晩の前夜祭を奉仕させて頂きました。おかげを頂きまして、有り難うございます。